デクレッシェンド -7-

 晴野さんはキャンバスに向かって腕を組んでいた。キャンバスの真ん中には、「大なり」の記号を横に長く伸ばしたような形が、大きく黒い色で描かれている。そしてその周りを囲むように、四方八方へといろいろな向きに色とりどりの線がいくつも引かれていた。

「なにを描いてるんですか?」
「『デクレッシェンド』ってタイトル。デクレッシェンドの記号と五線譜のつもりで描いてみたんだけどね」

 わたしが問いかけると、晴野さんはこちらを向いて微笑みながら答えてくれた。

「デクレッシェンド?」

 聞きなれない言葉にわたしは訊ねかえした。

「音楽記号の一つなんだ。だんだん弱く、って意味。楽譜にこの記号があるところでは、音をだんだん弱くしていくんだ」
「へえ……。もしかして晴野さんって、音楽もされてるんですか?」
「うーん、ちょっとだけ……。小さい頃にピアノ習わされてた。今はたまにギター弾いてるよ」
「えっ、今度聴かせてくださいよ」

 わたしがそう言うと、晴野さんは照れるように笑った。

「そうだねえ、君になら少しくらい、いいかな」

 なんだか胸が躍る。そしてそのことが、少し恥ずかしく思えた。
 扉が開いたので目をやると、林さんが入ってくるところだった。林さんはこちらへ歩いてきて、晴野さんのキャンバスを一瞥して口を開く。

「なに、デクレッシェンド?」
「そうそう」
「え、林さんも音楽されてるんですか?」

 わたしは思わずそう訊いた。

「いや、してねえよ。中学だか高校だかの音楽の授業で習ったろ」
「え……、そうでしたっけ。全然覚えてないです……」

 林さんはすたすたと部屋の後ろにある棚まで歩いていって、箱を手にとった。

「おもしろい絵だな」

 ほんとうにおもしろいと思っているのかよくわからない声で、林さんはそう言った。わたしは林さんから目を離して、また晴野さんの「デクレッシェンド」を眺める。だんだん弱く……。

「そうだ、東雲さんって誕生日いつ?」
「七月一日ですよ」

 腕組みをほどいて訊く晴野さんに、わたしは答えた。

「そっか、もうすぐだね」
「晴野さんはいつですか?」

 わたしがそう訊ねると、晴野さんはどこか意味ありげに微笑む。

「なに笑ってるんですか」
「一月七日。君のをひっくり返した日だね」
「え、ほんとうですか!」

 わたしはまた、自分の胸が躍るのを感じた。そしてすぐに、ひょっとして晴野さんは冗談を言っているだけなんじゃないか、という気がした。

「すげえ偶然」

 林さんがやっぱり興味なさそうに、小さく呟く。

 

「いただきます」

 両手をあわせて申し訳程度に呟き、箸を手にとる。焼かれた鮭の切り身を崩して、口に運んだ。

「どうも」

 声をかけられてそちらに目を向けると、林さんがいた。

「こんにちは」
「うん」

 わたしが挨拶をすると、林さんは短く頷いて、手に持っていたトレイをテーブルの上に置き、わたしの隣の席の椅子を引いて座った。

「コンテストに出す絵、どう?」
「少しずつ描けてますよ。自信はないですけど……」
「そう」

 返事はそっけなかったが、林さんがわたしに声をかけてくれたこと──しかも、部室でもない場所で──に、なにか安堵のようなものを覚えた。

「あのさ」

 林さんはわたしのほうを見て口を開く。

「カナメのこと、好きなの?」
「へっ……?」

 予想だにしなかった質問に、わたしは思わず変な声をあげてしまった。

「えっと……、はい、えっと、人として、好きですよ……」

 ふうん、と林さんはつまらなそうに呟く。

「でもまあ、それって恋愛感情だってことな気もするけどね。違うならすぐ否定するんじゃないかな」
「そ、そうですかね……」
「まあいいや。変なこと訊いて悪かった。気にしないで」
「は、はあ……」

 林さんは顔を食事のほうへ戻して、茶碗を手にとり玄米をかきこむ。わたしも鮭の切り身の残りに手をつけた。

 

 結局そのあとは一言も喋らないままに、二人とも黙々と食事をした。

「じゃあ、次の時間は講義あるし、また」

 林さんはわたしより先に食事を終えると、そう言って食器の乗ったトレイを手に立ちさっていった。わたしは食事を続けながら、林さんの言った「カナメのこと、好きなの?」という言葉を、頭の中でぐるぐるともてあそんだ。
 少なくとも、人としては好きだ。けれどそれが恋愛感情というものなのか、わたしにはよくわからない。恋人がいたことはないし、誰かに恋をしたという記憶もない。恋愛感情って、いったいなんなのだろう。
 晴野さんの優しい微笑みが、わたしの脳裏をかすめる。そして、いつか指先がほんの少しだけ、晴野さんの手に触れたこと、そのときになぜかどぎまぎしたことを、思いだした。

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