トランス・ペイン

「どうしたの、アヤメ。何をそんなに泣いているの?」
「さっきこけて、ケガしちゃって……」

 わたしはナツメに、擦りむいた膝を見せた。赤い血が滲んで、陽射しを受けてきらきら、でも痛い、痛い、痛い……。

 ナツメの顔になんだか元気がないような気もしたけれど、そんなのどうでもいいと思ってしまうぐらい。

「よしよし、ほら僕と手を繋いで?」

 差し出された手を握ると、ナツメも柔らかくわたしの手を握り返してくれた。
 不思議と、すーっと膝の痛みが引いていく。

「あれ、もう痛くない……」

 そう言い終える前に、なぜだか突然悲しくなった。理由は全くわからない、得体の知れない悲しみが胸の中を満たしていく。

 ナツメは顔を少し歪めて、けれどすぐに朗らかな表情で言った。

「それはよかったよ」

 それ以来、わたしは怪我をするたびにナツメと手を繋いだ。いつもすぐに痛みは綺麗さっぱり消えてしまった。そのたびにわけもなく、なんだか悲しくなった。
 そしていつも、ナツメの暗い表情は少し歪んでからすぐに、朗らかで柔らかな笑顔に変わった。

 いつものように怪我をして、いつものようにナツメと手を繋いで、いつものように痛みが消えて、いつものようになぜだか悲しくなって、わたしは呟いた。

「ナツメはすごいなあ」
「え?」

 ナツメは首を傾げてわたしを見る。

「だってナツメと手を繋ぐと、どんな痛みもすーっと消えちゃうんだもん。でもね、なんだか悲しくなるの。わけわかんないんだけど、どうしてか、悲しい」
「そっか……」

 そう呟くナツメの顔は、何かに納得したようにも見えたけれど、何に納得しているのかはわからなかった。

「ねえ、どうやってるの?」
「なにが?」
「ナツメと手を繋ぐと痛くなくなるの。どうして?」
「それはね……」

 ナツメは少し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。

「アヤメの痛みが、僕の中に移るからだよ」
「えっ? じゃあ、わたしの代わりに、ナツメが痛くなるの?」
「まあ、そうだよ」
「なんで言ってくれないの?」
「なにを?」
「わたしの代わりにナツメが痛くなるんでしょ? そんなのダメだよ……」
「言えるわけないじゃないか、だって……」

 僕はダメな奴だなあ、とナツメはのんびりと間延びした声で言った。わたしにはナツメが何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。

「痛いのは慣れているから平気だよ。痛いときはいつでも僕の手を握るんだよ」

 しばらく黙ったあとにナツメはそう言って、わたしの頭を撫でてくれた。

 

 わたしはナツメ――今は「兄さん」と呼んでいるけれど――に痛みを引き受けてもらいながら、日々を過ごし、いつしか大人になっていた。

 頭が割れそうだ。いや、割れて中から何かが生えてきて雄叫びをあげそうだ。今までに負ったどんな怪我のときよりも痛い。痛い、痛い、痛い……。

 兄さん。

 兄さんに手を握ってもらえば、この痛みから解放される。けれどその代わりに兄さんがこんなふうに苦しむことになるんだ。ああでもそんなこともうどうでもいい。兄さん、兄さん、兄さんを探さなきゃ。早くこの痛みから解放されたい。

 わたしは両手で頭を押さえつけながら――そんなことをしてもなんの意味もないのだけれど――兄さんを探した。

 リビング、いない。キッチン、いない。ベランダ、いない。バスルーム、いない。いない、いない、いない……!

 意識が飛ぶんじゃないかと思った。むしろ飛んでほしかった。そしてやっと兄さんの部屋の前までたどり着いた。

 扉を思い切り開けた。ベッドに横たわっていた兄さんが体を起こし、こちらに顔を向ける。

「兄さん、助けて!」
「悪いけど、今はそんな気分じゃないんだ……」

 暗く沈んだ声。

「なんで、ねえ、痛いの、痛い……」
「それはお前の痛みだ。お前が自分で感じるべきものなんだ」

 なんでそんなこと言うの。と、もう口に出す余裕すらなく、ベッドへ走り寄り、無理矢理に兄さんの手を掴んだ。
 すーっと痛みが引いて安堵したのも束の間、まるでぎゅっと心を握りつぶされているような、そんな悲しみが胸の内を満たす。

 何これ。こんな悲しみ、知らない。

 兄さんは顔を歪めて額に片手を添えていた。

「これはまたすごい頭痛だなあ」

 兄さんは歪む顔をさらに歪めて微笑みながら、そう言った。