いためたいほど愛してる

 肉の焼ける匂い。私はこの匂いが嫌いだ。あの夏を思いだす。

 黒いブラウス。ところどころにオレンジ色の縦縞が入っている。白い軍手をはめた右手が、空を切る。

 私は思いだしそうになって、なんとかそれを抑えた。
 思いだしたくない。目を大きく開き、視界に映るものに思考を移す。

 フライパンの中で焼けている肉の塊。台の上に置かれた青い皿。まな板の上には千切りのピーマン、キャベツとニンジン。
 視線をダイニングへと向ける。テーブルの上には、銀色のナイフとフォークが置いてある。

 ダイニングの向こう、窓の外では、雨が降っていた。土砂降りだ。

 私は視線をフライパンに戻し、一度コンロの火を消した。焼けた肉の塊を皿に移す。
 もう一度火を点け、まな板の上の千切りの野菜をフライパンに放り込む。ときどき菜箸でそれを混ぜながら、炒める。

 そろそろいいだろうか。炒めた野菜を肉の横に乗せる。これで私の夕飯ができあがった。

 皿を持って、私は椅子に座る。
 ダイニングテーブルの隅には、何本かのカッターナイフが散らばっていた。食べおわってから片付けよう。

 私はナイフとフォークを手にして食事を始めた。

 

 誰かが追いかけてきたら、どうすればいいだろう。逃げればいいのだろうか。

 私にはわからない。

 一体誰が追いかけてくるのだろう。
 私は走りながら、何度も後ろを振りかえる。そして、何かにつまずいて倒れこむ。私はアスファルトの上に座りこんだまま、後ろを振りかえった。

 誰がやって来るのだろう。その人は私を捕まえてくれるのだろうか。

 逃げるのに疲れた私は、いつまでも座りこんだまま待ちつづけていた。

 誰かがやって来るような気がする。あの小さい影が今に大きくなって、私のすぐ傍まで来るに違いない。

 私はふと痛みを覚えて、足に目をやる。膝が擦りむけて血が出ていた。
 足音が聞こえるような気がする。

 

 私は目を開いた。背筋が嫌な汗に濡れている。

 布団をはねのけて起きあがり、カーテンに遮られた窓を見た。まだ外は暗いようだ。
 立ちあがって電気を点け、机の上の時計を見る。午前二時三十六分。

 私は電気を消して、ベッドの端に腰かけた。

 まぶたを強く閉じる。
 黒いキャンバスにネオンが弾ける。それはとらえどころのない、色とりどりの光だった。

 目を開ける。
 薄い暗闇の中で、私は手を伸ばす。その手は何も掴めない。

 あの時と同じように。いつだって同じように。

 私はベッドの上に仰向けになった。睡魔が忍びよってくる。それが手の届くところまでやってくるのを待つ。
 もう少し。もう少しで眠れる。

 唐突に、携帯電話が鳴りはじめた。
 私はまぶたを押しあげて立ちあがり、机の上にある携帯電話を取った。通話のボタンに触れて、耳にあてる。

「もしもし」

 聞こえてきたのは消えいりそうな、少女の震えた声だった。

「ミカ?」

 私の問いかけに、少女は小さな声で頷いた。私は溜息を殺して、携帯電話を左手に持ちかえる。

「こんなじかんに、ごめんなさい」

 ミカの声は小さすぎて、聞きとりにくかった。時折しゃくりあげている。

「気にしなくていいよ。何があったの?」

 ミカは黙りこんだ。私は心の中で、ゆっくりと数字を数えた。
 一。二。三。四。五。

 まだミカは喋らない。
 六。七。

 そこで私は、夕飯の後の食器をまだ片付けていないことを思いだす。後で洗わなければ。

 ふいにミカが何か喋った。けれど、何を言ったのか聞きとれなかった。

「何?」
「なんでもないの。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 ミカはしゃくりあげながら謝る。

「気にしないで。いつでも電話していいよ。迷惑なんかじゃないから。わかった?」

 ミカはまた小さな声で頷いた。私はまた、溜息を殺す。

「で、何があったの?」
「なにも……。もう、わたしだいじょうぶだよ」

 とても大丈夫には聞こえなかった。けれど私はミカに話をあわせる。

「そう。大丈夫なんだね。じゃあ早く寝たほうがいいよ」
「うん、ねる……」

 私は時計に目をやった。午前三時十七分。

「おやすみなさい」

 少ししゃくりあげながら、ミカはそう言った。

「うん、おやすみ」

 私が答えると、電話は切れた。思わず溜息を吐く。

 私はベッドの上に転がった。ミカに何があったのだろう。何かがあったに違いない。けれど何があったのか、わからない。
 私は寝返りを打った。

 もう眠ろう。

 私は非情だろうか。それでも構わない。私は眠い。すぐ傍に睡魔がやって来ている。あとはそれに身を委ねればいい。

 

 私は携帯電話のアラームで目を覚ました。
 ベッドから起きあがり、アラームを止める。午前六時。

 違和感を覚えて、頬に手をあてた。少し濡れている。何か泣くような夢を見たのだろうか。
 思いだそうとしたけれど、何も思いだせなかった。

 キッチンへ行き、シンクの中をのぞく。汚れた皿と、ナイフやフォークが散らばっていた。
 私はパジャマ姿のまま食器を洗いはじめた。スポンジを濡らし、洗剤をつける。泡立てて皿にこすりつける。汚れはたちまち落ちていく。

 こんなふうに、簡単に汚れを落とせたらいいのに。

 けれど、なんの汚れを落としたいのだろう。

 私は洗い物を終えて、部屋に戻った。
 床に散らばった服を拾いあつめて、着替える。赤いシャツに黒のジーンズ。今日は木曜日、バイトは休みの日だ。
 私は散らかった部屋を見渡した。部屋の片付けでもしよう。

 手始めに私は、床に落ちている服をすべて集めることにした。

 

 肉の焼けた匂いが部屋に広がっている。部屋は蒸し暑く、私は汗をかいていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 何を謝っているのだろう。自分でもわからない。

「謝れば済むと思っているのか! ふざけるな!」

 彼女の黒いブラウス。ところどころにオレンジ色の縦縞が入っている。
 白い軍手をぬいだ手が、私の頬を打つ。

「ごめんなさい」

 私は泣きながら何度も謝る。そのたびに頬をぶたれて、ぶたれた場所が痛みを訴えた。
 それでも私は、その場を動かずに謝りつづける。

「ごめんなさい」
「うるさい!」

 玄関の扉の開く音がした。
 彼女は私をぶつのをやめる。キッチンに彼が現れる。

「どうしたんだ、なんで泣いてるんだ?」
「なんでもないのよ。大したことじゃないの」

 彼の問いに、彼女が猫撫で声で答える。私は唇をかんで俯いた。

「ほら、ご飯食べるわよ」

 

 目を覚ますと、私はベッドに不自然な格好で倒れていた。

 片付けをしている途中で眠ってしまったらしい。昨日数時間しか眠れなかったことを考えると、仕方ないことかもしれない。バイトが休みの日でよかった。

 部屋はいっこうに片付いていなかった。
 私は机の上の時計を見た。午後二時三十七分。ずいぶん寝ていたことになる。私はキッチンへ行くために、部屋を出ようとした。

 それを遮るように、携帯電話が鳴った。

 音を立てて震えるそれを手に取り、耳にあてがう。

「もしもし」

 ミカの小さな声。

「どうしたの?」

 一。二。三。

 私は部屋を見渡した。
 片隅には書類が散らばっている。他の隅には、カッターナイフが何本も落ちている。私はそちらへ歩みより、カッターナイフを一本拾いあげた。

 刃をゆっくりと出す。すべて出しきってから、今度はしまう。

「あのね」

 ミカの声は震えていた。

「何?」
「ううん、やっぱりなんでもないの……。ごめんなさい」

 ――お願いだから、そんなに謝らないで!

 私は、そう叫びそうになるのをなんとか抑える。

「いいんだよ。気にしないで」
「うん……」
「で、何があったの?」

 ミカはまた黙り込んだ。私は、はじめから数えなおす。
 一。二。三。四。五。六。

「あのね、ママが」

 そこで突然、電話が切れた。

「もしもし?」

 私は大きな声で何度か「もしもし」を繰りかえしたけれど、返ってくるのは冷たい機械音だけだった。
 携帯電話を耳から離す。それを思いきり、壁に投げつけてやりたい気分だった。

 ミカに何があったのだろう。
 私は思いなおして、ミカの家に電話をかけてみた。けれど、いくら待っても誰も出なかった。

 私に何ができるのだろう。
 携帯電話を机の上に置き、カッターナイフを握ったまま、ベッドに仰向けになった。

 ずっと眠っていられれば楽なのに。何も考えなくていい。
 ただ夢に操られて、夢の思うままに動いていればいい。それがずっと続けばいいのに。

 カッターナイフの刃を出す。これで肌を引っかけば、どれくらいの血が流れるのだろう。

 私は目を閉じて、傷だらけの腕を思い浮かべる。それは、おぞましくて美しい。
 けれど、私の腕には一本の傷もない。タクヤはそれを羨ましがっていた。

 人は、ないものねだりばかりしているのかもしれない。

 私はカッターナイフの刃をしまって、壁に投げつけた。それは音を立てて床に落ちた。

 こんなことをするから散らかる。

 目を閉じる。けれど、眠れそうにはなかった。
 私は起きあがって部屋を出た。玄関に行き、靴を履く。

 立ちあがろうとしたそのとき、玄関の扉が開いた。タクヤが立っていた。

「今日バイト休みでしょ?」
「そうだけど」

 右手にコンビニの袋を持ったタクヤに訊かれて、私は答える。

「上がってもいい?」
「いいよ」

 タクヤは靴を脱ぎ、ダイニングへと姿を消した。私も靴を脱いで、彼の後を追う。

 彼はダイニングで椅子に座り、コンビニの袋からおにぎりを出していた。

「今でも玄関の鍵開けっぱなしにしてるの?」
「うん」

 私はタクヤの問いに答える。

「物騒だなあ。泥棒が入ってきたらどうするの」
「入ってこないよ、そんなの」

 ふうん、とさして興味もなさそうに頷いてから、タクヤはおにぎりを頬張りはじめた。私は彼の向かいに腰かけて、それを見るともなく眺める。

 タクヤは机の上のカッターナイフを一本、手に取った。

「いまだに僕、やめられないんだ」

 そう言いながら、タクヤは左腕の袖をまくった。そこには無数の傷跡があった。
 彼はカッターナイフの刃をゆっくりと出す。私は黙ってそれを見ていた。

「今日は止めないんだ? 珍しいね」

 そう言って彼はカッターナイフの刃をしまい、机の上に放りなげた。

「私にはあなたを止める権利なんて、ない」
「何わけわかんないこと言ってるの?」

 彼は一つ目のおにぎりを平らげて、次のおにぎりの包装を開きにかかった。

「止めてほしいの?」
「そうかもしれない。違うかもしれない。僕にも、よくわからない」

 彼は顔をあげて、けれど私を見ない。どこか別のところを見ている。

「なんで痛いことするの? 痛いの、嫌でしょ?」
「なんでだろうね……。君には、きっとわからないよ」

 私にはわからない。
 部屋で携帯電話が鳴るのが、かすかに聞こえた。私は立ちあがり、部屋に向かおうとした。

「逃げるんだね」
「私は逃げないよ」
「逃げてるよ」

 私は立ちどまり、振りかえった。視線の先にタクヤがいる。彼は椅子に座って、おにぎりを食べている。

 ただの人間だ。
 空腹を感じれば物を食べる。大した意味もない言葉を連ねる。

「何から逃げてるっていうの?」

 わたしは思わず、そう訊ねた。

「何か大切なものからだよ。向きあうべきもの、というべきかな」
「いったい何しに来たの。無駄口叩きに来たわけ?」

 携帯電話はまだ鳴りつづけていた。ミカからかも知れない。取らなければ。
 タクヤには聞こえないのだろうか。それとも、聞こえない振りをしているのだろうか。

 私はタクヤに背を向けて、部屋へと歩く。

「ほら、逃げてるじゃないか」

 背中から聞こえる声を無視して部屋に入る。それとほぼ同時に、携帯電話は鳴りやんだ。
 私は思わず溜息を吐く。

 携帯電話を手に取って、誰からの着信なのか確かめた。非通知だ。
 私はまた溜息を吐いた。携帯電話をジーンズのポケットにねじ込む。

 ダイニングに戻ると、タクヤは三つ目のおにぎりを食べているところだった。

「どうしてこの家には、こんなにいっぱいカッターナイフがあるんだろうね」

 タクヤはなかば独り言のように、そう言う。

「あなたが持ってきたから」
「そうだったかな」

 彼が口の中の物を飲みくだす音が、ダイニングに響く。私はコップに水を注いで飲んだ。

「今日は君に会いに来たんだ」

 私は黙って、またコップに水を注いだ。
 ポケットの中の携帯電話は震えない。音を出さない。

「会いたかったんだよ。会うだけでいいんだ」
「私、逃げてる?」

 私は彼の目を覗きこんで訊ねた。彼は少し戸惑ったように、一瞬だけ目を伏せる。そして私の目を見て、口を開いた。

「誰だって逃げてるんだよ。僕だって逃げてる」
「何から?」
「いろんなことから」

 

 時計は午後五時を示していた。

 私は机の上に携帯電話を置き、電話がかかってくるのをひたすら待った。
 空腹を感じなかったので、夕飯も作らなかった。やっと電話が鳴ったのは、午後十一時を過ぎた頃だった。

 通話ボタンに触れて、携帯電話を耳にあてる。

「もしもし……」
「ミカ?」

 もちろんミカの声であることはわかっていたけれど、私はその名前を呼んだ。

「ねえ、ちゃんと教えて。何があったの?」
「なにもないよ」
「あるでしょう? 切らないでちゃんと教えて。私はあなたを責めたりしないから。あなたは悪くない。謝らなくていいの」

 携帯電話を持つ手に力が入る。私は手の震えを懸命に抑えた。

「でもわるいのはミカだよ」
「悪くない。ミカはちっとも悪くないの。わかった?」
「うん……」

 私は汗ばんだ右手から、左手へと携帯電話を持ちかえた。

「私ね、いつも独りだから、ミカから電話もらえるの嬉しいんだよ」

 自分で言いながら、ほんとうだろうかと疑う。
 心が軋むような痛みを訴える。けれど、私は意味もなく笑顔を作った。

「だからね、ミカといっぱいお話ししたいの。何があったの? なんでも言っていいんだよ」

 ミカは何も答えなかった。

「ねえ、どうして今日、突然電話切っちゃったの? 寂しかったなあ」
「ごめんなさい……」

 ミカがしゃくり上げる。
 私は唇をかんだ。

「いや、いいんだよ。切りたくなったら切っていい」
「きりたかったんじゃないの。まちがってボタン、おしちゃったの」
「そうなんだ」

 嘘だ、と思った。
 けれど、私は笑顔を作りながら相槌を打った。

「じゃあ、今度は何があったのか教えてくれる?」
「なにもないの。さみしかったからおでんわしたの。もう、だいじょうぶ」

 私は頷いた。嘘だと思ったけれど、頷いた。

「ばいばい」

 ミカはそう言って電話を切った。私も携帯電話を耳から離して、溜息を吐く。
 両手が汗ばんでいた。背中もじっとりと濡れている。

 私はベッドに転がりこんだ。眠ってしまおう。

 

 彼女が追いかけてくる。彼女は手に何かを持っている。私は必死で走る。何も見ない。ただ、前へ前へと足を進める。
 それはもどかしいほどゆっくりで、私は唇を強くかんだ。

 逃げなければ。
 けれど、疲れた私は座りこむ。

 捕まってしまったほうが、楽かもしれない。

 彼女はすぐ後ろにいた。私は腕を引っぱられて立ちあがる。彼女の掌が私の頬を打った。
 二度、三度、何度も打たれる。私はされるがままに立ちつくしていた。

「いい加減にしなさい、どうして逃げるの!」

 私は何も言わない。何を言えばいいのかもわからない。頬が痛い。

 気がつくと家の中にいた。彼女がコンロに火を点けて、その上にフライパンを置いている。

 彼女は私の腕を取って、フライパンの上にかざした。

 私は必死で泣きさけぶ。
 彼女はそんな私の頬を、続けて何度も打った。私は力一杯身を引いて、彼女の手から逃れる。フライパンから煙が上がる。

「あんたのせいで夕飯が作れないわ」
「ごめんなさい」

 私は何度もそれを繰りかえす。

 

 目が覚めて、私は時計に目をやった。午前五時六分。頭が痛い。
 携帯電話が鳴っていることに気がついた。

「僕だけど」

 電話越しに聞こえてきたのは、タクヤの声だった。

「今日の夜、行ってもいいかな?」
「どうぞ」

 私は携帯電話を机の上に置いて、ベッドに仰向けになった。もう一眠りしよう。

 

 わたしはベッドの中で、じっと息をひそめていた。彼女が寝てしまうのを待って、足音を立てないように気をつけながら、居間へ行く。
 そして、電話に近寄る。

 受話器を取って、もう覚えてしまった番号を押す。受話器を耳に当てると、機械音が聞こえてくる。わたしの心臓は高鳴る。

 緊張のせいで声がおかしくなってしまうのを、わたしは知っていた。仕方ないことだ。

 機械音が終わる。わたしはすかさず口を開く。

「もしもし……」

 わたしの声は震えていたけれど、そのまま言葉を続ける。

「こんなじかんに、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。何があったの?」

 わたしは息を殺して、考える。

「ママが……」
「何?」
「なんでもないの。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 わたしはいつの間にか泣きだして、しゃくりあげながらそう言った。

「気にしないで。いつでも電話していいよ。迷惑なんかじゃないから。わかった?」

 わたしはそう言われても、ずっと泣きつづけていた。

「で、何があったの?」
「なにも……。もう、わたしだいじょうぶだよ」

 わたしは嘘をついた。
 きっとばれているだろうとは、わかっていたけれど。

「そう。大丈夫なんだね。じゃあ早く寝たほうがいいよ」
「うん。ねる……」

 ほんとうは大丈夫なんかじゃなかった。わたしの涙は止まらなかった。

「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

 わたしは電話を切った。

 居間はとても静かだった。わたしはそっと受話器を元に戻し、居間から自分の部屋へと戻る。
 彼女は起きてこなかった。そのことに安堵する。

 けれど、朝になれば彼女は起きる。わたしはまた頬を打たれる。

 わたしはベッドに入って眠ろうとした。けれどなかなか眠れなかった。

 

 タクヤが来たのは午後八時過ぎだった。

 彼はダイニングでカッターナイフをいじっている。何も喋らない。何をしに来たのだろうか。
 私は黙って彼の向かいに座り、彼を見るともなく眺めていた。

「腕、貸して」

 突然、彼はそう言った。

 私は袖をまくって、左腕を差しだす。
 彼は片手で私の腕を掴んで、カッターナイフの刃を出した。そしてその切っ先を、私の腕にあてがう。

「痛いかもしれないけど、癖になるんだ」

 わかっていた。
 わかっていたのにやっぱり怖くなって、私は力一杯、腕を引いた。彼がこちらに倒れこむようにして、額をテーブルにぶつけた。

「ごめんなさい」

 私は思わず、そう口走っていた。

「なんで君が謝るのさ」
「わからない」

 タクヤはやんわりと微笑んだ。
 涙が出そうだった。それをあくびでごまかそうとしたけれど、上手くいかなかった。

「泣きたいときは泣けばいい。誰も怒ったりしない」
「でもね」

 私はもはや涙を流しながら、言った。

「お母さんはね、怒ったの」
「どうして?」

 目を閉じて、まぶたの裏のネオンの中を、漂う。

「私のことを愛してたから?」

 タクヤは持っていたカッターナイフの刃をしまった。

「たくさん私のこと、ぶったの。私の腕を、炒めようとしたこともある。あなたは、私の腕を傷つけようとする。どうして?」
「この痛みを、わかってもらえるかもしれない、と思ったからだよ。君になら、わかってもらえるかもしれない、って」
「嘘!」

 私は叫んで、部屋に駆けこんだ。

「もう帰って!」
「わかった。今日は帰るよ」

 玄関が開いて、そして閉まる音がした。私はそっと、ダイニングの様子をうかがった。
 誰もいない。

 私は携帯電話を手に取って、ミカの家に電話をかけた。

「もしもし」

 それは確かにミカの声だった。

「ミカ、お母さんがぶつんでしょう。痛いんでしょう」
「そんなことないよ」

 嘘だ。
 私は息を吸って、声をひそめた。

「ほんとうのこと言って。私も小さい頃、よくぶたれてたの。痛かった。よく泣いてた。でも泣くと余計に怒られるの。でも……」
「ちがうの! ママはわたしのこと、すきだもん! わたしもママのこと、すきだもん!」

 ミカは私の言葉を遮って、ヒステリックに叫びたてた。私は思わず口を閉ざす。
 ミカは泣いていた。私はもう一度、息を吸う。

「好きだからって、なんでもしていいわけじゃないでしょ?」

 自分に言い聞かせるように、私はそう言った。

 ミカは泣いている。
 泣き声に、ノイズがかかって聞こえてくる。

「ごめんなさい。でもママはなにもしないよ。わるいのは、わたしなの」

 ミカが途切れ途切れに言った。

「ミカは悪くない」
「わるいの。わたしが」

 突然、電話が切れた。私は携帯電話を見つめる。もうそれは、少しも動かなかった。
 
 私は携帯電話を机の上に置き、代わりにカッターナイフを手に取った。刃をゆっくりと出す。それを左腕に突きつけてみる。

 けれど、私にはタクヤの痛みがわからなかった。

 刃をしまってカッターナイフを放りなげる。それから自分の掌で、自分の頬を打ってみた。

 けれど、私にはミカの痛みもわからない。

 気がつくと私は、涙を流していた。それは生ぬるくて、気持ちの悪い涙だった。私には何もできない。

 誰の痛みも、わからない。

 夜がゆっくりと更けていく。私は独りで、窓の外を眺めていた。