アナログコミュニケーション

 僕はミカに、右手を差し出した。

「え、なに?」

 ミカはきょとんとして僕の右手を見る。

「手、繋ごうよ」

 僕はなんとなく恥ずかしくて、小さな声でそう言った。

「え、カイ君って、手とか繋ぐっけ?」
「いや……でもなんとなく、たまにはいいかなって……」

 ミカは「なんかちょっと恥ずかしいね」と言いながら僕の右手を握った。なんだかあやふやな皮膚越しに、すっとミカの体温が流れてくる。

「なんか、手の繋ぎ方ってよく覚えてないや。最後に手を繋いだのなんて、もう何年も前だし」
「僕も、もう数年ぶりだよ」

 少し握る手の力を強めると、それに応えるようにミカの手がこわばった。

「手って、こんなにあったかかったけ」

 照れ隠しのように、彼女がうそぶく。

「きっとみんな、手のあったかさなんてもう忘れてるよ」
「こうやってたまに思い出すのも、いいかもね」

 手の力を強めたり弱めたりして、僕はミカの物理的存在を確認しようとする。

「アナログなコミュニケーションなんて……久しぶり……」

 ミカの声のボリュームは段々と小さくなって、消えた。
 右手の中にあった温かさも、一緒に消えた。

「うん……みんな、デジタルになっちゃったもんね……」

 もうミカに届くことのない声を宙に放り投げて、僕はセカイの電源を切った。
 電源を切られたセカイは、僕の体内でころころと転がる。

 脳内にぱっと赤い光が灯り、ミカの思考が流れ込んできた。

「もう諦めなよ、今はわたしがいるんだからいいじゃん? それにデジタルのほうが便利だよ」

 僕はそれに応えるために、ゆっくりと思考する。

「嫌だよ……アナログなミカのほうが好きなんだ……デジタルになってから、君はなんだか変わってしまった……」
「そりゃ少しは変わるよ、アナログなミカなんて死んだも同然でしょ?」

 眠りたい。
 そんな願いさえ最近では、老人のうわごとだと笑われてしまう。

 僕たちは食欲も性欲も睡眠欲も、満たすことを必要としなくなった。ほぼ全ての生き物はデータに変えられ、物理的な存在は殆ど壊された。時々ミカや僕みたいな「頭のオカシイ人間」が、それを壊されないように守っていたりする。けれどそれは、多くの人の目には馬鹿げた行動としてしか映らない。

 それでも僕は、アナログなミカが好きで、毎日セカイの電源を入れて物理的なミカにアクセスを試みる。でもセカイに住んでいるミカもデジタル化が進んでしまって、僕の好きなミカからどんどん遠ざかってしまう。

「ねえカイ、どうやったらあんたの中にあるセカイ、壊せるの?」

 脳裏に流れてくるミカの思考が、いつもより鋭くなった。なんだかくらくらする。

「いつになったら私を見てくれるの? どうしてそんな出来損ないのアナログなほうばっかり可愛がるの? デジタルな私じゃ、駄目なの?」

 それは泣き声みたいだった。
 脳裏に赤く灯る彼女の思考が、僕の思考を浸食していく。

「いくらそれがかつての私だとしても、もうカイは私じゃなくて別の誰かを愛してるように見えるよ……。私を見てよ。ねえ、早くシナプスを繋いでよ……」

 脳内でミカが暴れ回る。このままじゃ僕の思考回路は全部壊れてしまいそうだった。

「わかった、わかったから。落ち着いてくれよ、ミカ。セカイはもう捨てるから……」
「ほんと?」
「うん、全部捨てるよ、ちゃんと今の君を愛するよ」

 ミカの思考がきらきらと輝いた。

「ねえじゃあ、シナプス繋いで?」

 僕はミカの思考をなぞって、シナプスを差し出した。彼女もシナプスを差し出す。
 そして僕は……。

 僕は彼女のシナプスをひきちぎった。
 ミカの存在はあっけなく廃棄された。

「やっぱり僕は、昔の君が好きなんだ……」

 僕はセカイの電源を入れて、ミカの姿を探した。ミカは冷たそうなベッドの上で泣いていた。けれど僕の存在に気がつくと、ぱっと笑顔を咲かせる。

「ミカ、手を繋ごうよ」

 差し出した右手を、ミカの左手が握る。やっぱり少しだけ、あたたかい。この感触を、忘れたくない。

「カイ……、もう、離さないよ……」

 僕が違和感に気付くより早く、ミカは僕をセカイの中に引っ張り込んだ。僕は息ができなくなって、たまらずにのたうち回る。

「やっとアナログなミカを捨ててくれたんだもん……、もう絶対に逃がさないよ……」

 脳裏にかろうじて残っていた赤い光が、完全に消えた。体が痺れて、言葉を発することさえできない。

「愛してる……」

 そう言ってミカは、僕の体に噛み付いた。久しぶりに機能した痛覚によって、僕は気を失いそうになった。なんとかそれをしのいだけれど、体はまだ動かない。
 ミカは僕の体中に次々と噛み付いて、僕の皮膚を噛みちぎって、咀嚼した。あまりの痛みに、意識が遠のいてゆく。

 もう僕の体は殆ど残っていなかった。ミカは口を血液で汚しながら笑っていた。

 そして最後に残されていた僕のセカイを、彼女は噛み砕いた。完全に僕がなくなる寸前に、彼女の声がセカイの上に響いた。

「愛して……た……」

 僕は消えて、セカイは壊れて、ミカだけがずっと笑っていた。