デクレッシェンド -20-

 部室には川口さんしかいなかった。わたしはよっぽど、開けたばかりの扉を閉めて家に帰ってしまおうかと思った。けれど、少しためらっている間に川口さんがこちらに目をやったので、引くに引けなくなってしまう。
 川口さんはどこか、いつもと雰囲気が違うような気がした。少し不思議そうな顔でわたしを見ている。
 仕方ない。

「こんにちは」

 わたしははっきりとそう声に出しながら、部室の中へと足を踏みいれる。それから窓際に並ぶキャンバスに目をやり、描きなおしている「ゲシュタルト崩壊」の絵がちゃんとあることを確認した。

「えっと……、こんにちは。どなたですか?」

 ただただ不思議そうにそう訊ねる川口さんに、わたしは言葉を失った。しっかりと川口さんの目を覗きこんでみたけれど、ほんとうにわたしが誰なのかわからないようだった。そもそもこれがいたずらの一環だとしたら、あまりにもくだらなすぎる。

「あー、新入部員の東雲って言います……」
「そうなんですね。私は川口です。よろしくお願いします」

 働かない頭で捻りだしたわたしの嘘に、川口さんは丁寧に答えた。そしてキャンバスへ向きなおり、筆を動かしはじめる。

「えっと……、カナメさん、いや、あの、晴野先輩に、ここに来るように言われたんですけど……」
「晴野先輩なら、さっき帰りましたよ? 晴野先輩のお友達なんですか?」

 嘘を重ねるわたしに、川口さんは訝しげに訊ねる。わたしは心の中で、ああ……、と情けなく唸った。そして、もう一度ない頭をひねる。

「今日じゃなくて明日だったかも……。えっと、じゃあわたし、帰りますね……」
「そうですか。お疲れさまです」

 ──晴野先輩のお友達なんですか?

 わたしはそれに答えなかった、と心の中で呟きながら、部室を飛びだすような気持ちで扉の外へ出た。
 おかしい。絶対に、おかしい。
 廊下を歩きながら、頭の中でそう繰りかえす。三谷先生に忘れられ、川口さんにも忘れられた。いったい、そんなことがありうるだろうか。
 それとも……。わたしは大掛かりないたずらでも仕掛けられている?
 いや、三谷先生と川口さんには、おそらく接点がない。仮にあったとして、大学の教員と学生が手を組んで、こんな馬鹿げたことをするわけがない。
 わたしが、おかしいのだろうか。わたしの記憶が、間違っている? 三谷先生とも川口さんとも、わたしは初対面なのに、わたしが二人との架空の記憶を作りあげて……。
 いやいや、とわたしは頭を振った。

 

「ねえ、わたしって、おかしい?」

 食卓でわたしは母に向かって訊ねる。

「はあ?」

 母は不思議そうな声をあげて、わたしの目を見つめた。わたしはそれを真っすぐ見つめかえして、もう一度口を開く。

「わたしって、おかしい?」
「おかしい、ってなによ」

 首を傾げながら母が訊ねる。

「頭が……、その、おかしいというか」
「ほんとうに頭がおかしい人は、自分がおかしいんじゃないか、なんて思わないでしょ」

 わたしの言葉に、母はどこか呆れたようにそう言った。

「そもそも、頭がおかしいって、なに。おかしいもおかしくないもないでしょ。誰かにとっておかしいものは、別の誰かにとってはおかしくないでしょ」

 思わずわたしは、ううん、と唸る。

 ──あのね、わたしのこと、忘れられちゃったの。しかも、二人から。一人は一度見聞きしたものは絶対に忘れない人で、それなのにわたしのこと忘れてたの。

 そこまで言うことを考えて、けれどわたしはなにも言えなかった。だって、やっぱりおかしいとしか、思えなかったから。わたしを忘れたあの二人がおかしいのか、それともわたしがおかしいのか、それはわからない。いや、もうなにもかもが、世界のすべてが、おかしく思えた。

「この前、日記がどうとか言ってたでしょ。ちょっと疲れてるんじゃない? 最近は帰りも遅い日が多いし。そんなに勉強ばっかりしなくてもいいの。お父さんの言うことなんて気にしなくていいから」

 わたしはコップに麦茶を注いで一気にあおった。そういえばわたしは、美術サークルに所属したことを母に言っていない。母はどうやら、わたしが遅くまで大学に残って勉学に励んでいると思っているようだ。
 父の顔がふと脳裏をよぎる。最近は以前にも増して顔を合わせることがなくなった。父はとにかく忙しいらしく、朝はやくから夜遅くまで働いているようだった。休日もほとんど家にいない。

「お父さんこそ、働きすぎなんじゃないの」

 わたしは思わずそんなことを口走って、それから後悔した。けれど母は曖昧に微笑んでみせる。

「あの人は好きで働いてるの。ワーカホリックってやつ。ああいうのは、自分が倒れてやっと気づくもんなの」
「心配じゃないの? だって、ほんとうに倒れちゃうかもしれないんだよ?」

 どこか達観したような母の言葉に、わたしは思わず食ってかかる。母は、そりゃあねえ、と少し間延びした声を出した。

「心配は心配。でもしょうがないでしょ。こっちからはどうしようもないんだから」

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