胎児の口癖

「あら、お腹蹴ってる」

 わたしの中で、胎児が暴れている。

「楽しみだな」

 結局わたしは、彼と結婚して、子どもを授かった。まるで初めからそれは決められていたかのように、順調に進んだ。
 あんなに結婚と出産を嫌がっていたのが、自分でも不思議なほどだった。

 また蹴った。

 わたしは幼い頃に散々聞かされた歌を口ずさむ。胎児にも聞こえるだろうか。お腹の中で、一体どんな気持ちでいるのだろう。

 わたしは母の胎内にいるときに、どんなことを思ったのだろう。もう覚えていない。

「なに?」
「いや、何も言ってないけど」

 彼が何か言ったような気がして訊ねたけれど、彼は不思議そうに首を傾げた。はっきりと声が聞こえた。でも確かに、彼の声ではなかったかもしれない。

「赤ちゃんが、何か言いたいことがあるんじゃないかな?」

 彼は笑いながら、わたしの膨れたお腹を撫でた。

 また何か聞こえた。わたしを耳を澄ました。それは何度でも何度でも聞こえた。けれど何を言っているかは分からなかった。分かるはずがない。そもそも胎児に言葉などないのだ。

 あるいはひょっとしたら、疲れているから幻聴でも聞いてるのかもしれない。

「わたし、もう寝ますね」
「ああ」

 布団にくるまって、目を閉じる。とても懐かしい気持ちに満たされて、少しずつ眠りに近づいていった。
 お腹の中で胎児が暴れている。

 おやすみ、赤ちゃん。

 カフェの窓際の席で、彼と向かいあって座る。話があるんだ、と切り出す彼に、わたしはうんざりしながら、アイスコーヒーに落としていた視線を彼の目へと向けた。

「僕は、結婚を考えて付きあってる」

 まっすぐな目で見られて、なんだか居心地が悪い。わたしは思わず目をそらした。

「真剣なんだ。君の考えを聞きたい」

 アイスコーヒーの入ったグラスに手を伸ばす。グラスは濡れていて、触れた指先も濡れる。

 冷たい。

「わたしは結婚しません」

 できるだけはっきりと、そう告げた。

「あなたとじゃなくても。誰とであっても、結婚はしません」
「どうして?」

 彼がうろたえるのがよくわかった。

「絶対に、結婚はしない」

 もう一度わたしは、それだけ言った。

 残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し、氷だけになったグラスをテーブルに置く。グラスとテーブルがぶつかる音が、やけに大きく聞こえた。いっそグラスが割れてしまえばいいのに、とさえ思う。

「子ども、生みたくないの。母親には、なりたくない。あなたが結婚を前提に付きあうと言うなら、もうわたしたちの関係は、今日で終わり」

 わたしは椅子に座ったまま、彼を見据えた。今度は彼が目をそらす番だった。

 結婚したからといって子どもを産むとは限らない。それは分かっていても、きっと結婚したらそのうち子どもを産むことになるだろう、ということもわたしには分かっていた。

 何より、彼の「結婚したい」という言葉が「子どもが欲しい」とほぼ同じ意味であることだと、分かっていた。

「絶対に、駄目なのか?」
「絶対に、駄目なの」

 彼はため息をついて、俯いた。
 店の外で、小さな子どもが母親にじゃれついていた。わたしはその光景を、ずっとずっと見つめていた。

 生まれてきたくなんてなかった。

 だからわたしは、母親を恨んだ。父親を恨んだ。彼らさえいなければ、わたしは生まれなくて済んだ。

 そして遺伝子を恨んだ。DNAを恨んだ。一体それらがどんなものなのか、よく知りもしなかったけれど、恨んだ。

「死ね」

 簡潔な、ひどく簡潔な一言が、机の上にいくつもあった。彫刻刀で彫られ、カッターナイフで刻まれ、油性ペンで書かれていた。

 生まれてこない方がよかったのだ。
 わたしは難産だったと聞いた。きっと、あの頃のわたしは、この世に生まれてくるのを拒んでいたのだ。ちゃんと拒んだのに、母が勝手に生んだのだ。

 教室にはわたし一人だけだった。汚れた机を前に、足が少し欠けたせいでぐらついている椅子に座る。机の脚の周りには、煙草の吸い殻が落ちていた。

「死ね」

 わたしだって、そうしたい。いや、消えてしまいたい。

 けれどきっと、生きてしまうのだろう。そのくらいのこと、分かっている。

「あら、お腹蹴ってる」

 お母さんが、嬉しそうにそう言っている。

「お前のこと嫌いなんじゃねぇの」

 お父さんが、つまらそうにそう言っている。

 わたしは二人の会話を聞きながら、体を丸めて目をつぶっていた。なんてここは居心地がいいのだろう。お母さんがよく歌ってくれる歌は、全部覚えた。温かい水の中で、その歌を口ずさむ。

「早く生まれてこないかしら」

 もうすぐ。
 温かい水が波打つ。目を閉じたまま、わたしは宙返りをする。

「生まれたくなんかない」

 何度も何度も繰り返したその言葉は、それでもお母さんには届かない。

「おやすみ、赤ちゃん」

 わたしはまだ眠れないのに、お母さんは勝手に眠ってしまう。もう一度、いや、何度も、同じ言葉を繰り返す。

「生まれたくなんかない」

 それでもお母さんには届かなかった。