煙草はハタチから/抗うつ剤は15歳から

病気・障害

 

 はじめまして、あるいは、非・はじめまして。
 藤野ゆくえ@SrwNks)です。普段は Twitter でわけわかんないこと呟いたり、創作したりしています。くだらないこと言ってないで早く働けよ……。じゃあ職をくれよ。

 わたしは高校1年生の春と夏の間くらいに、ある朝、突然「学校に行きたくない!」と泣きさけびました。それまで風邪と忌引き以外で学校を休んだことはなく、読書と勉強しかしていない、おそらくはいわゆる「優等生」でした。

 それが突然、不登校児に転換。

 その数年前に、過労からうつ病を患っていた父親が、すぐにわたしをかかりつけの精神科へ連れていきました。
 当時は今ほど「わたし、うつ病です」と気軽に言えるような時代ではなく、むしろ精神病は隠すもの、忌み嫌われるもの、絶対に自分はならないはずのもの、でした。

 父親の主治医はわたしに「うつ病」の診断をくだしました。
(ちなみに、現在よく話題になる「非定型うつ病」(新型うつ病)という名前なんてまだなかったと思います。わたしは従来のいわゆる”典型的”な「メランコリー型」とみなされたんだと思います)

 高校1年生、誕生日をまだ迎えていなかったので、多分15歳のわたしは、抗うつ剤を処方されました。
 多いときには1日に20錠くらいの薬を飲んでいた覚えがあります。それはいわゆるオーバードーズではなく、多剤処方というもので、現在は「多剤処方はアカン」という風潮が広まっており、わたしの飲んでいる薬も1桁になっています。

 わたしは学校に行かなくなりました。というか、「行けなく」なりました。
 いじめに遭ったわけでもない。勉強についていけないわけでもない。

 行こうと思えば行けるはずなのに、「行けない」のです。「行きたい」のに。だってわたしは勉強が好きだったから。少なくとも当時はそう思っていましたが、今となってはそれが本心だったのかどうか、よくわかりません。

 同時にわたしは、文芸部に所属しており、そちらには顔を出していました。夕方に家を出て、放課後に高校について、文芸部の活動だけする。改めて考えると、その辺りはいま話題の非定型うつ病なのでは、と思ったりもしますが。

 わたしは大学病院の精神科の開放病棟に入院することになりました。
 大学病院なので患者数が多く、なんというか患者たちは「モルモット」でした。わたしはそう思ってました。
 研究者でもあり大学の先生でもある医者が週に1回、部屋にやってくる。ささっと問診をして、「じゃあこの薬を試してみましょう」と言う。要するに被験体だったのです。

 さすがに被害妄想が過ぎますかね?
 考えすぎだって主治医あなたは笑った、これは症状くせだから治らないんだ……。

 わたしは入院する際にノートとペンを持ちこんで、ひたすら小説や詩を書き殴っていました。そしてそれを原稿用紙に清書して、封筒に入れて文芸部の部員の家に送り、その部員が文芸部で共有してくれて、みんなで作る文芸誌に載ったり載らなかったり。

 うつ病になって、本が読めなくなったんです。文字を追いかけて理解する、ということができなくなった。
 でもアウトプットは際限なくおこなっていました。中学生のときには際限なくインプットしていたので、それが溢れだしたのだと思います。知らんけど。

 ところでわたしはいつからか、自傷行為、いわゆるリストカットというよりはアームカット、たまにレッグカットなどもおこなっておりました。

 入院の際は看護師に「絶対にやっちゃダメ。やったら閉鎖病棟に連れて行くからね」と言われたのを覚えています。そもそも刃物なんて持ちこめなかったので、そのときはちゃんと我慢していました。

 40日ほどでわたしは退院できました。今となって思えば、早く退院したくて「大丈夫な患者」を装っていたのかもしれません。
 もちろん、それを装えるぐらいには症状が安定していたと言えなくもないですが。

 当たり前のように自傷行為は再発し、わたしの病状は悪化しました。学校には行けないまま留年が決まり、「まあ1年ぐらいなら」と留年しましたが、また留年。「もうこれ以上は嫌だ」と退学しました。

 それでも大学に進みたかったので高卒認定(昔の大検)を取って大学へ進みました。といってもわたしはどうしても行きたい大学があり、そのために1年だけ浪人を認めてもらいました。

 予備校に行っても講義中に泣きだす。センター試験の途中で泣きだして足切りをくらい、結局のところどうしても行きたかった大学には行けませんでした。

 滑りどめの大学には受かって、わたしはまさかの一人暮らしを始めます。

 どうしても親と一緒にいるのが嫌で、近場の大学を受けなかったのです。親と離れて大学生活を送りながら病気を治して、ずっと憧れていた研究者になるんだ、と夢を見ながら遠い地へと赴きました。

 ところが症状は悪化するばかり。親の目がなくなったためにわたしの自傷行為はどんどんエスカレートしました。

 ハタチになったら煙草を買いにコンビニへ行きました。煙草を吸いたかったわけではなく、いわゆる根性焼きというものをやってみたかったからです。
 ですが「せっかく買ったんだし」というわけのわからない理由で吸ってみたら、そのままニコチン依存症にもなりました。現在もヤニカスです。ヤニしかないとか思っちゃうヤバい。

 まあでも人生の1/3はニコチン依存症ですが、それより多い1/2は抗うつ剤を飲みつづけてますし、まあでも生きてるからいいや。
 正直、死ぬまで治らないんだろうな、ずっと薬を飲みつづけるんだろうな、それもまた人生……、って思ってます。「死ぬまで薬を飲む」っていうのは、精神病に限ったことじゃないですし。

 たまに「治る気がないんだろ!」的な言葉をぶつけられると、うっ……、となっちゃうんですけど、じゃあ治すぞって思って癌が治るのか? という話しじゃないですか?

 というかもう疲れました。

 少し前に、「15年も耐えたあなたなら」と言ってくれた人がいました。わたしはうつ病とは闘ってもいないし、まして乗りこえてもいません。ただひたすら耐えつづけた。なんとかそれでも生きてきた。

 わたしはなんだか、その人が「耐える」という言葉を使ってくれたことに、救われました。

 わかってくれている、と思えたからかな。だって闘ってないもん。闘病なんてしてない、そんな元気なかった。

 実は耐えきれずに一度だけ、自殺を図ったことがあるけれど、それもなんやかんやで未遂に終わりました。わたしがそれ以降は自殺を図らないと決めているのは、ただただ「ムカつくから」です。

 というのも、未遂に終わったときに、当時の恋人に言われたんです。

「お前の自殺が未遂に終わったのは、未遂に終わるように図ったからなんだろ、かまってちゃん」

 そういうわけじゃないのに。ほんとうに死んでしまおうと思った、というか錯乱していたのに、どうして理解者だと思っていた恋人にそんなことを言われなきゃいけないのか。

 結局はフラれたんですが、それからなんだかすごくムカついたんですよ。
 恋人にすら「かまってちゃん」とか言われるんだ。きっと他の人もごちゃごちゃ言ってくる。死んじゃえばそれをわたしが感知することはないはずだけど、でも想像したらすんごくムカつく。

 ただの意地だけで生きてます。死んだってきっと、ちょっとごちゃっと言われたあとは、すぐに忘れられちゃう、って、それもわかってるけど。

 それに今は、もしもわたしが死んでしまったら悲しむ人が、少なくともひとりはいる、と思っています。もしかしたらもうちょっといるかも。

 けれどその人たちも、自分が生きていくためにはわたしのことを忘れる時間が必要で、その時間はどんどん長くなっていく。
 ……というのは、わたし自身の実体験でもあります。当時はとてもショックを受けて、今もたまに思いかえすことはある、けれど普段は忘れています。ずっと亡くなった人のことを考えていたら、きっとわたしは生きていけません。

 とても申し訳ないとも思ってしまうし、わたしは絶対に自殺した人のことを悪くは言えません。それでも、生きているのはわたしなんです。

 わたしは「うつ病になってよかった」とは、微塵も思っていません。病気なんて、かかるよりかからないほうが、マシに決まっています。
 けれど、なってしまったものはしょうがないです。それに幸い、寛解してはいませんが、15年前に比べれば遥かにマシになりました。

 生きんのがツラいとかしんどいとかめんどくさいとか、言いたいときだって、たくさんあります。けれど同時に、愛しかないとか思っちゃうヤバい、って思ったことも、少ないながらも、あります。

 だから、生きよう……。っていうか、生きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました