アヤメは泣いていた。
僕だって泣きたいさ。けれどそんなことは言えない。言わない。僕が公園でこっそり餌をあげていたかわいい子猫が死んでしまったことを、アヤメに言う必要はない。
「どうしたの、アヤメ。何をそんなに泣いているの?」
「さっきこけて、ケガしちゃって……」
僕が訊ねると、アヤメは擦りむいた膝を陽のもとに晒す。赤い血液がきらきらと輝いていて、僕は、ああ美しいな、と思った。
「よしよし、ほら僕と手を繋いで?」
そう言って僕は手を差し出す。するとアヤメが柔らかくその手を握ったので、僕も柔らかく手を握り返してやる。
すーっと、僕の悲しみは消えていった。そして代わりに、膝の辺りが痛みだす。
「あれ、もう痛くない……」
不思議そうにそう言いながら、アヤメは悲しそうな顔をした。僕は思わず痛みに顔を少し歪めてしまったと思うけれど、すぐに気分の良さに笑顔を取り戻す。
「それはよかったよ」
僕は白々しくそう言って、手を離した。
それ以来、アヤメが怪我をするたびに、僕はアヤメと手を繋いだ。いつも僕の悲しみはすっきりと消えて、代わりにアヤメの痛みが流れ込んでくる。
僕にはその理由がなんとなくわかっていたけれど、どうしても自分を抑えられなかった。心の痛みより、体の痛みのほうが、ずっとずっとマシだったから。
「ナツメはすごいなあ」
「え?」
ある日、いつものように怪我をしたアヤメの手を握ったあと、アヤメがそう呟いたので、僕は思わず首を傾げた。
「だってナツメと手を繋ぐと、どんな痛みもすーっと消えちゃうんだもん。でもね、なんだか悲しくなるの。わけわかんないんだけど、どうしてか、悲しい」
「そっか……」
そうだ、やっぱりそうだったんだ。アヤメの痛みが僕に移る代わりに、僕の悲しみがアヤメに移っている。
けれど、アヤメはそのことには気づいていないようだ。
「ねえ、どうやってるの?」
「なにが?」
「ナツメと手を繋ぐと痛くなくなるの。どうして?」
「それはね……」
僕はほんとうのことを言うべきなのだろうか。けれど、いつまでも黙っておくわけにもいかないような気がした。
「アヤメの痛みが、僕の中に移るからだよ」
「えっ? じゃあ、わたしの代わりに、ナツメが痛くなるの?」
「まあ、そうだよ」
「なんで言ってくれないの?」
「なにを?」
「わたしの代わりにナツメが痛くなるんでしょ? そんなのダメだよ……」
「言えるわけないじゃないか、だって……」
思わず、僕はダメな奴だなあ、と呟いてしまう。その呟きは自分でも驚くほどにのんびりとしていて、白々しかった。
アヤメの痛みが僕に移っている。僕は嘘はついていない。けれど、僕の悲しみがアヤメに移っていることを、僕は言わなかった。嘘はついていないけれど、真実を片方教えなかった。
アヤメは不思議そうな顔をして僕を見ていた。
「痛いのは慣れているから平気だよ。痛いときはいつでも僕の手を握るんだよ」
自分を騙すように、アヤメを騙すように、僕はそう言って、アヤメの頭を撫でた。
僕はアヤメ——かわいいかわいい、僕の妹——の痛みを引き受け、そしてこっそり僕の悲しみを引き受けてもらいながら、いつしか大人になっていた。
今日は、僕の大好きな人が亡くなってしまった。交通事故に遭ったらしい。どんなふうに死んだのだろう、と僕はぼんやり考えながら、自分の部屋のベッドの上で溶けていた。
次の春になったら告白しようと、ずっと決めていたのに。もちろん、OK をもらえる自信があったわけではない。けれど、たまに話をするときはいつも優しい微笑みを浮かべてくれる、素晴らしい人だった。
ああ、どれくらい血が出たの。骨は折れたの。肉は飛び散ったの。痛かったの。どれくらい痛かったの。
どうして僕を置いて、いってしまったの。
こんな悲しみ、知らない。
突然、部屋の扉が音を立てて開いた。
「兄さん、助けて!」
アヤメがそう叫びながら部屋に入ってくる。僕はゆっくりとそちらに目をやり、なんとか声を絞り出した。
「悪いけど、今はそんな気分じゃないんだ……」
アヤメは頭を手で押さえている。きっとひどい頭痛にさいなまれているのだろう。だからって、それがなんだって言うんだ。
「なんで、ねえ、痛いの、痛い……」
「それはお前の痛みだ。お前が自分で感じるべきものなんだ」
僕はそんな、心にもないことを言った。
こんな悲しみを、アヤメに移すわけにはいかない。きっとアヤメが今までに一度も味わったことのない、こんな悲しみを……。
けれど、けれど、手を繋げば、僕はこの悲しみから解放される……。いや……。
アヤメはこちらへ走り寄り、無理矢理に僕の手を掴んだ。
すーっと、悲しみが消えてゆく。そしてとてつもない痛みが頭に襲いかかってきた。
頭が割れるどころじゃない。中から何か生き物でも生まれてきそうだ。
僕は思わず頬に片手を添えて、顔を歪めて、呟く。
「これはまたすごい頭痛だなあ」
とてつもなく痛いのに、僕は思わず自分が笑みをこぼしていることに気づいた。
アヤメは不思議そうな顔をしていたけれど、その表情は途端に暗くなっていった。涙すら出ないような悲しみに襲われているのだから、当然のことだろう。
アヤメ、君さえいれば、僕はいつまでだって、生きていける——。